ピカチュウ次元

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すでに2か月ほど前になってしまうが『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』を観に行った。

 

ポケモンの劇場版を劇場で観るなんて何年ぶりになるのか、記憶ではセレヴィの出てきた映画(わざわざタイトル調べたりしないよ、ごめんね)が最後じゃないかと思うのだけれど、まあそりゃ対象と思われる年齢はとっくに過ぎているのだから離れていくのが自然の摂理としても合っている気がする。

しかし、今回の映画はどう考えても対象の年齢が幼稚園・小学校時代にポケモンと触れ合った人々に合わされているように見えて、後悔するのがいやだったから映画館まで足を運んだ。

観た感想は、そう驚くようなことも感動するようなこともなかったが損をした気分にもならなかった、という感じだった。払ったお金分の何かはバックしてもらったというか。さすがに現在現役でポケモンを楽しんでいる少年少女も観られるように作ってあったので大人はそこまでのめり込んで観れんなというところもあったけれど(「は??」と思うところもあった)「エンテイってこんなにでかいんか、勝てる気しねい…」とか「サトシってこんな年からサバイバルやってたんなあ」とか「ポケモンマスターってサトシが勝手に作った造語だったの??」とか新しい(?)発見もあったし、何かしらね、やっぱり何かをポケモンからはもらっているのね、ということが確認できたような、そんな映画だった。

 

それにしても印象的だったのは、ラストシーンでホウオウの研究家であるおじいさんが山の頂上から「子どもたちはみな、虹の勇者じゃ。だから、みんな生きろ!」と叫ぶ場面(おじいさん以外周りには誰もいません)。ホウオウは気に入ったポケモントレーナーに自分の羽根を1枚落としていくと言われていて、それを拾ったトレーナーは「虹の勇者」と呼ばれて、ホウオウと再び会ってバトルすることが出来るんだけど、それがサトシで、この羽根のせいで結構大変なことにもなったりするのだけれど…とにかくこのセリフに結構驚いた。「みんな生きろ!」って…そんなふうに大人から言われなきゃいけないほど、生きていくのが大変な時代なのか、と。

まあでも、それはきっと日本だけではないし、なんだったら21世紀だけでもないよな、と思い直した。いつか編集者の松岡正剛が「いつだって時代は不遇なんです」と言っていたけれど、それはほんとうのことだと思う。特に子どもたちにとって、ほんとうに「恵まれた」時代なんて、今まで一度もなかったに違いない。生きていくのが楽な時代も環境も、ほんとうのほんとうはないんじゃないかと思える。食べ物があろうがなかろうが、未来があろうがなかろうが、突きつけられる現実の質量みたなものはあまり変わらないし、それによって引き起こされる心の嵐の大きさだって変わらないんじゃないだろうか。そのひとにふさわしい天国と地獄が与えられているだけだ。

 

少し重たいことを書いてしまったが、ほんとうに書きたかったのは実はピカチュウのこと。

 

今やすっかりアイドルのようになっていて、なんでしょうか、やっぱりネズミってアイドルの素質があるのかな。今回の映画を見ていてもピカチュウはしっかり自分のかわいさを自覚した動き&フォルムをしていた。昔はもっとでっぷりしていて、それはそれでかわいかったのになあ、今やすっかり頭とからだの間にくびれができてスリムになっている。なんとなく「やれやれ」という感じがしなくもないけれど、時間を経て洗練されてきているということなのだろうから、まあそれはそれとして、映画があったのであちこちでピカチュウの絵やぬいぐるみを見た。きっと毎夏のことなんでしょうが、今年は何故だか視界によく入ってきて、ちょくちょくカメラで撮っていた。

そうするといろんなピカチュウがいることに気付く。絵でも、ポスターやらのぼり旗やら看板やら、描かれているものによって顔かたちが違うし、フィギュアやぬいぐるみになっているとなおさら見た目が違う。もう全然違う。ましてや着ぐるみになって行進なんてしていたら軽い混乱のようなものを覚える。今までも同じように様々な場所で様々に出現するピカチュウを見てきたはずなのだけれど、こんなに「???」となったのは初めてで「んーこの感じ、なんか知ってる気がするなあ」と思ったら、写真のこと考えているときと似ていた。

 

写真は、一度写真になってしまえばいろんなところに複写することが出来る。紙にも布にも壁にもネット上のあれやそれにも、無数に増えることが出来る。もちろん、いくら増えてもその写真がその写真であることは変わらないのだけれど、その一方で「何になるか」「何に使われるか」というところが決定的にその写真に違いを及ぼす。

違うのに同じ。同じなのに違う。

写真って、ほんとうの写真ってどこにいるんだろう。

そんなふうに考えているとかんたんに「あれ?写真って何なんだ?」となる。このつかめない感は自分のなかでは子どもの頃に時間や空間や宇宙やらのことを考えていたときの感覚と似ていて、それはつまり自分の生きている世界と重なりながらも違う次元にあるものをつかもうとしている感覚なのだ。写真は平面に印刷されて見ることが多いから2次元のものだなんて思われているかもしれないけれど、たぶんもっと高次元にあるところからこの次元に映写されているようなものなのではないかな。

 

そして今のピカチュウという存在も、そういうのものになっているのではないかな。

 

「そんなこと言ったらその他のポケモンやら他のアニメキャラクターもいっしょだろうに」と言われるかもしれないが、それはそうなのだが、しかしそれにしてもピカチュウは別格である。認知のレベルが違う。知っている人間の桁が違うのだ。美輪さんが黄色い髪の理由を「ピカチュウが前世なの」と言えるぐらいなのだから。それでみんな「あはは」となれるぐらいなのだから。

 

でも何なのだろうか。いろんな姿のピカチュウを見るごとにつのるこのせつなさは。どんどんピカチュウという存在が空洞になっていくようなさびしさは。

ほんとうのピカチュウはどこにいるのだろうね。

 

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