なんにもないや

いつまで写真を撮ることができるのだろう、とよく考える。

 

今、自分と写真はいわゆる共生関係の状態にある。ぼくは写真に生かされ、ぼくの写真はぼくに生かされている。ぼくが写真を撮らなくても写真は世界中で撮られ続け、増殖し続けるけれど、ぼくの写真はぼくが撮ることをやめれば生まれることはなくなる。ぼくの写真はぼくという人間と使用しているカメラ(Nikon F2 Photomic)とに緊密に関係しているので、そういう意味ではかなり限られた条件のもとに降り立っているのである。

 

写真はシャッターを切れば誰にでも撮れる、という大原則がある。カメラを持っている人にはすべて写真を授かる資格のようなものが与えられている。カメラを持った人にはぴょこんぴょこんと避雷針のようなアンテナが立っていて、それを目印に、そのひとが撮るべき(必然)写真がやってくる。これがぼくが撮影に抱いているイメージだ。

 

この前、アラーキーが「写真に行き詰った時どうするか?そんなもん簡単だよ、カメラを変えりゃあいいんだよ。写真はカメラが撮ってるんだから」と言った、という記事を読んで、そりゃそうだよな、と思った。

さっきのぼくのイメージで言えば、カメラを変えるというのはアンテナを変えるということである。アンテナを変えれば必然的にやってくる写真が変わる。あるカメラを使っていてそのカメラが呼び寄せる写真(正しくはそのカメラ+自分が呼び寄せる写真)を底まで見尽くしてしまえばカメラを変えるしかない。被写体を変えるだけでは限界があると思う。今手にしているカメラと自分で何が出来るのか。そこに可能性を感じることが出来てさえいれば、被写体を変えなくても撮り続けることが出来るだろうし、変化を感じ続けることが出来ると思う。

 

感覚的に、今の自分とNikon F2はまだまだ変化出来るなと感じている。まだ自分はこのカメラを底の底まで味わい尽くしていないような、さらい尽くしていないような確信がある。技術的にうまく扱いきれていないといういこともあると思うし、写真家としての総合的な表現力が追いついていないということもある。使い始めて1年そこそこでは当たり前かもしれない。とにかく、このカメラとこれからも成長していけるということが嬉しい。

 

でも、始まったからにはやっぱりどこかで終わりがくる。今までの自分の経験からある日突然写真が撮れなくなっている、撮りたくなくなっている、という日がきても不思議に思わない。大体そういうことがあると、技術的なものは多少残っていてもそれよりもっと大事な表現感覚のようなものは消えている。「どうしてあんなことをしていたのだろう。よく出来ていたな」とまるで他人事のように感じるようになってしまう。飽きっぽいと言ってしまえばそれまでだけれど、やっている最中はその飽きに似たものがいつやってくるのかというのは結構な恐怖である。

 

写真を撮り始めてもうすぐ丸2年になる。いまだに自分が何故撮っているのか、何を撮っているのかよくわからない。それなのに撮った写真を見ると毎回感動してしまう。「すごいものが撮れているな」と思う。ただ、自分が撮れている写真をちゃんと掴めていないがために、うまく形に出来ず、自分以外の人の目に触れさせる機会をつくることが出来ずにいる。ひょっとしたらぼく以外の人にはまったく関係がないものというか、何の価値もないものなのかもしれない。それさえ問いかけられずにいる。手元にはどんどん写真がやってきているのに。

 

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この前、今ほぼ唯一写真を見てくれている女の子に「きみの写真はなんにもない。未来も過去もなくて、信用出来てすきだ」と言われた。ぼくもまったく同じ理由で自分の写真のことをすきだと思った。