文章でもなんでも注いでしまえ

文章を書くって難しい。

 

当たり前のことですね。ほんとうに難しい。書いているとどんどんどんどん糸が(意図が?)絡まっていくような気がしてね、「ここもうちょっとどうにかならんか」とか思って削っていると妙に淡白に感じたり、かと言って長けりゃいいわけもなく、「自分の声とこの文章合ってんのか?」とか、気になることっていっぱいある。無数とは言わないが。

 

そもそもこのブログを書きだしたのは、ただ写真を撮っているだけだといけないなと思ったから。写真を撮っているときって何も考えていない(わけではないけど、それに近い)から「そもそも何を考えて写真撮ってんの?」ということを、撮ったあとにでもいいから考えたかった、のね。ともすればかんたんに感覚で撮れてしまうのが写真で、感覚に任せていると撮っている写真ってどんどん変わっていくので、「ん?なんでこんなことになってるんだ??」「おいおい、待て待て!そんなふうになっていくんかい!」とか、そういうことが頻繁に起こる。

たとえば今は横より縦構図の方が多くなってて、しかも寄って撮ることが多くなっている。これって「アップ病か??」と思うのだけれど、出来上がる写真と言うのは「カメラ×撮影者×世界(外界)= 」で決まってくるので、自分の病とは限らず、世界が発しているもののせいということもある。もちろん、自分の気分が縦構図と寄りの画面に引かれているということもある。正直あんまりそういうことを解明することに興味はないのだが、しかし全く考えないということにも感心しないので、というよりこれも半ば感覚で「曖昧でもいいからとりあえずわかる分だけでも言葉にしておかねえとやべえぞ」という感じがしてこうしてブログを書いています。

 

それにしても、ブログの文章って不思議です。横書きのせいなのか、あまり今までこういうフランクな文体で書いたことはない。もうちょっと硬い、ある意味では耽美的に書いていたような意識が自分のなかにはあるのだけれど、今はどうでもいいような感想もふわっと書けるような文体で書いている。こんなんでいいのかねえ。わかんないけど。

でも、文章を書いていること自体は悪いことではないのだろうな。これでも割と真剣に文章を書いていた時代があって、でも書けなくなって、その前は絵を描いていていそれも描けなくなって、できないなと思うと大体まったくチャラにしちゃって次へ進むという生き方(ちょっと大層な言い方だけどね)をしてきたのだけれど、やっぱり総力戦よね。注げるものがあるのならできうる限り注ぎたいよ。何にってこの世界だろうによ。

絵は描けない、けどね。そのうちソール・ライターみたいに遊べたらいいなと思っている。

そういえば写真を撮るようになって、「あ、よかったな」と思えたことは絵画史に残る巨匠たちの気持ちが少しわかったこと。不思議だったんだよ、何で積み藁とかをせっせと描いているのか。きれいだったんだよね、ぼくもきっと写真撮ってたよ。

 

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