交点

今年は文章を書くと決めてから写真を撮るペースが落ちていた。ほんとうはきちんと両立できるのがいいのだけれど、なかなかむつかしい。特に写真はフィルムのスキャンに時間がかかる。デジタルで撮ることができればそんな手間も省けるし、だいたいフィルムで撮っているのにデジタルデータで写真を扱うなんて意味あるのか…ともよく思うのだが、これはもはや得られる写真の質ではなく撮影行為のためである。第一フィルムカメラだとカメラが行う作業がシンプルだ。シャッタースピードと絞り、そしてピントを設定すれば、ただそのとおりに動いてくれる。変に気をつかってカメラがなんとか補正をしてくれることはない。これが人間とカメラのフィフティ・フィフティな関係だろうと思う。

それでもせっかくフィルムで撮っているのだからプリントとかすれば、という感じなのだろうが、なぜだかそっちには興味がないのだな。フィルムカメラと同じ操作性のデジタルカメラがあればいいのに。そして天から降ってくればいいのに。

 

それはともかく、また写真が変わってきた。

すこしまえから写真が微妙にピンとこない感じになってきていて、それはぼくが文章の方へとウェイトをシフトしたせいだと思っていたのだけれど、そうではなくて単なる過渡期だったようである。

基本、ぼくの写真は2、3カ月もすると過渡期に入ってしまう。あるフレーミングの写真からべつのフレーミングの写真へと移り変わる。撮影場所は家から半径約2キロ近辺に限られているし、撮るモチーフもほとんど変わらないから、撮るコンセプトだけがミリ単位で変化していて、ひょっとするとぼく以外のひとはほとんど気付かないかもしれない。正直どうでもいいようなことかもしれない。けれどぼくから言わせれば、ほっといても撮るー見るの連続のなかで自分のなかの写真の在り方が更新され、撮影に反映されていくというプロセスがたまらなくたのしいのである。自分のなかで写真が生きているのだと感じられる。

 

以前、アラーキーの『近景』のような写真を理想としていたぼくの写真のコンセプトは「しっかり止めて撮る」ということだったように思う。この感覚は、以前からぼくのなかにあるのだけれど、カメラをもって歩いているともうそこに写真になるべき風景なりものなりたたずまいなりがあって、あとはそれを撮るだけ、というものだった。写真がすでにそこにある、という感覚である。

でも、それはあえてマイナス面を言えば被写体を「殺して」撮ることだったのだと思う。しっかり殺して撮る。それはそれでとてもうつくしい写真だった。

 

「しっかり殺す」写真を撮る一方、ときどきまったく違う質の写真が撮れていて、次第にぼくはそちらの写真も気にするようになっていた。それはぼくの感覚で言うと「生きている」感じのする写真だった。フレーミングもきちんとしていなくて、撮るべきものが画面からあふれてしまっているような、写真になりそうな瞬間のすこしまえか、あとか、というような、そういう感じの写真である。ばっちりではないのだ。けれどそれがなんとも言えず「生」感を醸し出している。画面も、モチーフもまだこれから動きそうな気配がある。未来があるのかもしれない。不思議な質の写真だな、と思う。これからはこういう写真を撮っていくのだな、とも。

 

まったく、写真にたいしては追いつくということがない。こちらが理解しかけたころにはもう次の写真に移っている。自分で撮っているにもかかわらず平気で変わっていく。あいまいなものって、ほんとうに魅力があるんだな。ずっとずっとおもしろいよ。

 

 

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