写真の透明度

東京に行ってアラーキーの写真展「センチメンタルな旅 1971-2017-」を見てきた。

 

豊田の美術館でも展示を見たことがあったけれど、そのときは自分で写真を撮っていなかったからか、今回はだいぶ違う見え方をした。

アラーキーの写真は透明度がとても高い。とにかくきれいなのだ、写真の質が。撮影に余計なものが混ざっていない感じ。

情動みたいなものは隠さない。動きはじめには情が動いているけれど、ファインダーを覗いた瞬間にさっとそれが消えて、シャッターを押す時にはただ撮るということが行われている。そんな感じなのかな?わからないけど、いつもほんとうにきれい。何が撮られていてもきれいだ。

そんなこと、写真を撮るようにならなければわからなかった。この透明度を保ちながら写真を撮ることはとてもむつかしい。でも、決して写真全般に当てはまることではないけれど、自分の撮っている写真に関して言えばこの透明度は絶対に守らなければならない最重要項目なのだ。

個人的には陽子さんが亡くなったあとに自宅のバルコニーで撮った「近景」に一番思いが寄った。というのも(おそれ多くてなかなか言いにくいことだけれど)、自分の写真と似た質を感じたからだ。あ、ここにいけばいいのか、と、体感で教えてくれるような写真だった。

 

写真はいつも揺れている。声も小さくて、何を発しているのかちゃんとキャッチするのはとてもむつかしい。

 

最近見ていて、自分はほんとうに技術がないなと思う。コントロールが効いていなくて、ヘタクソに撮っている写真のなんと多いこと。それでもぼくの撮る写真は着実に育っていて、ぼくの前をぐんぐん歩いていく。なんとか遅れないようについていっているけれど、自分の手元に溜まっていく写真たちを一体どうすればいいのかがわからない。自分では目を剥くぐらいいいなと思う写真があっても、それをどう他の人に伝えればいいのか、もともと外に発信するのが苦手なせいもあるけれど、だいぶ手をこまねいている。

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写真とふたりっきり。

そんな時間を過ごしている。