理想の写真

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カメラ屋さんで写真を現像しているあいだ近くのマクドナルドでコーヒーを飲んで過ごすことが増えている。昨日もそのようにして時間を過ごしていたのだけれど、店内中央の席から窓の外の風景を見ているととても静かできれいに見えた。でもって「こういう写真を自分は撮りたいと思っているな」と思った。

「静か」の部分は、店内だから外の空間と隔てられて静かということである。さわさわすぐそこで木の葉が揺れていても音がしない。人が通っても車が通っても音がしない。音がしない景色はいい。自分と景色の間にはガラスが1枚挟まっている。ガラスが挟まるだけですっかり見え方が変わる。すっかりきれいになる。車や電車の中から外を見ても同じことが起こっているが、もちろんファインダーのなかでも起こっている。

 

そんなことをふわふわと考えていて、そういう意味ではカメラを持って世界と対峙しているときはカメラのなかにすっぽりと乗り物のように乗り込んで、自分と世界とをしっかり隔てながら事に臨んでいるという感じなのかな、とか思った。撮っているときにはあまりそうは感じられないのだけれど、実際出来上がってくる写真を見ていると割とそういう気分だな、ということに気付く。そして、より自分と世界とが隔たっているように感じる写真に、自分は「よい」と感じるらしい。

 

最近、自分はなるべくシャッターは冷めた状態で切りたいなという思いがある。なかなかそれが難しくて、シャッターを切るまでに時間がかかっている。

身体的に言えば、冷めて撮るというのは撮りたい瞬間に一呼吸置いて、人差し指から力を抜くということを行う。ほんとうは人差し指だけでなく親指からも力を抜きたいのだが、なかなか難しい。シャッターを切った瞬間に「しまった、親指がグッとなってる」ということがままある。

どうしてそんなことをするのかと言うと、心や体に力が入っていると基本写したいものは写したいように写らないからである。それは写真を撮り始めたときからの経験でわかっている。撮りたい瞬間があって、それに対して心がバッと前に出て体がそれに追いつこうと動くと、写真は妙にぼんやりした仕上がりになる。ピントが甘かったり、フレーミングが甘かったり、とにかく何かが甘くなる。結果「これは使えないな」という写真になってしまう。不思議なことである。だから今は「撮りたい瞬間」のことはひとまず置いておいて、少し遅れてでも力を抜いて、冷めた気持ちで撮るようにしている(もっともよいのは撮りたい瞬間に力を抜いて、無駄なく撮れることだけれど、自分はまだそこまでは出来ない)。まあでも、からだといっても広いので、カメラに触れている親指と人差し指から力を抜いて、代わりに小指でカメラを支える意識をもって…という具合に行っているのだけれど。

 

アラーキーの「近景」のような写真が自分の撮りたいと思っている理想の写真にもっとも近いものだろう。

そう感じてから1カ月半。自分の撮っている写真がその写真として力を発揮するためには基本的に「しっかりとピントがあっていなければならない」。「ぼんやりでいい」「ブレていてもOK」とはならないようである。しっかりバッチリ対象がとらえられている、その先に見るべきものがあるようで、正直言ってライブ感や雰囲気のような曖昧なものは二の次でいいようだ。だいたい、そういうものが写ってしまうと自分と世界とがつながり過ぎてしまう。あくまでもガラスが1枚間に挟まっていてほしい、最低でも。まるで宇宙人のように、目の前にあるものを初めて見るもののように撮りたい。それがどれだけ親しいものや人であっても。

 

どうしてそんなふうに撮りたいと思うのかよくわからないけれど、それはぼくの性質というよりはカメラの性質なんだろうな。自分がそんなふうに世界を見ているなんて、とても思えないし。