文章を書く年、あけました。

新年明けまして。明けました。

 

今年に入って文章というかテキストというか、そういうものを本腰を入れて書きたくなった。

はっきり「こう!」と言える理由はないのだけれど、ほんとうはある。自分にしかわからない理由――このまま特にぐぎゃんとへし折られたり無理に曲げたりされることなく、たとえばすーっと息を吐くようにまっすぐ自分が育ったとしたら、たとえば10年後何をしているだろうか、と考えたときに、たぶん文章を書いているだろうと思った。ぐっと握りしめなければならないような確信ではなく、まったく自然に。力を抜けばからだは水に浮くように。

 

ただ、じゃあなにを書くのかとなったときに特に書きたいことがあるわけじゃない。これが困ったことだ。じゃあ小説でも書こうか、と手をつけてみたら、つけはじめた瞬間に力が入って胸が詰まって気持ち悪くなった。あんなに自然に文章が書けると、きっと書いてそれで稼いで生きているだろうと思えたのに、なんてなんて不自然な力の入り方。おかしいだろうと思った。こんなふうに書いていては書けるものも書けないだろうと思った(ちなみにこの文章はいたってすらすら書いている。何も考えずに。考えていないから書けている)。

 

気持ち悪くなったのでカメラを持って外に出た。

なんて自然に写真は撮れるのだろう。不自然なときもあるけれど、そういうときのこともひっくるめてぱっと受容して、努力なく世界と触れ合って、風や木や走り去る車やちょっとした日差しの色合いの変化を感じて、家を出たときにはかたかった頭もからだもふーっと和らいでくる。

でも写真ではだめなんだな、お金にならないから。お金にならないからというか、本来与えられているものではないから。こんなに撮れるのになんだかもったいないなと思うけれど、本筋ではないという感覚がある。ただすごく重要なパーツであることには違いないんだろうな。ぼくに常に示唆を与えてくれるもの。あまりいくつかのことに集中するのは得意ではないけれど、写真への集中力は切らしてはいけない気がする。たとえ文章が今よりもっと書けるようになったとして、それでお金を稼げるようになったとしても、命綱は写真かもしれない。

 

とか、書いていたらあっという間に空間が埋まっている。自分のなかでは結構むちゃくちゃな書き味なのだけれど(何しろ何も考えていないので)、スピード感があるから文章が書きたいことを連れてきてくれている感じがある。衝動的、というのとも違って、文章が手をのばして自分(←文章)の友達のような言葉をひっぱってくるような…。

 

ともかく明けまして今年は文章を書く年です。写真を撮りながら。銭も稼ぎながら。

 

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