確かなあれこれ、それ

写真集、鋭意制作中…

とはなかなかいかず、何が忙しいのかわからないけれどばたばたしている。基本的に暇人の部類に入るうえ仕事すらしていないのに、さすがは師走というか、暇人すら走らせるのが12月というものらしい。

 

ここ1週間ほど、写真集で使うであろう写真をスキャンし直していた。というのも、ずっとフィルムからデータスキャンする際にA4サイズで取り込んでいたのだが、10月ごろから3:2の、いわゆる35㎜フィルムの比率で取り込むようになっていたので、そこはやはり比率を統一していた方がいいだろうと(そういうことが合っていないと気持ち悪く感じる性格なので)9月までの写真を見直し、取り込み直していたのである。しかし、やり始めると何とも要領を得ないというか、意味があるのかないのかよくわからなくなる作業であったので、幾分げんなりしてしまった。いつも作品をつくるときにはこういう時間が挟まってしまう。他人からしたら「何やってんの?」とか「無駄じゃない?」とか言われてしまうような、まったく心身の浪費としか言えないような時間である。正直ぼくとしても必要なのかどうなのかわからない。省けるなら省いた方がいいのだろうなという気はする。けれど省けない。ぼくにとっては避けて通れない薄暗いトンネルのような時間である。あるいはこれが個性と呼ばれるものなのかもしれない。

 

そうした個性的な(?)作業を通して写真集が出来上がったとして、さて、一体どれくらいの人の目に触れることになるのだろう。おそらく10人に満たない数だと思う。何だか労力にまったく見合わない数のように思える。

けれど、これが1000万人とか、何億人という数になったとして、はたしてどれくらい違うのかという気分にもなる。

ぼくらは一体何のために作品なんていうものをつくっているのだろう。絵でも彫刻でも楽曲でも映画でも小説でも漫画でも生け花でもダンスでもいいけれど、それが、例えば現在ぼくらが感じているように、感情を動かされたり、生きるということに対する示唆を受けたり、ほんのひとときの慰みになったりしたとして、一体どれほどの意味があるのだろう。だっていつかはその作品も作者もそれを見た人々も消えてなくなるのである。必ずなくなるのである。しかも、その作品によってもたらされた意味(というものがあるとして)はぼくら人間にしか価値のないものである。同じ生命であっても人間のような知的活動を行っていない他の動植物や鉱物や星には何の意味もない。ある動物の求愛活動が他の動物にはまったく通じないように。

 

この宇宙全体で見ると知的活動を行っている生命より行っていない生命の方が圧倒的に多いだろう。そして、仮にぼくらと似たような知的生命体がいたとしても、ぼくらの行動や価値観が通じるとは限らない。ぼくらはほんとうにぼくら人間に向けてしか何かをつくったりはできないのではないか。そしてどれだけ素晴らしい作品をつくろうと、その作品も、作品を見た人々も未来には消えていくのだと思うと、ほんとうに確かなものや価値のあるものは今目の前にある何かであり、誰かなのだなと感じられた。ぬるい湯船につかりながら。

 

今、生起しているそれ。変化しているあれ。動いているあなた。言葉に、声に、瞳によって揺れるこころ。そんな些細なあれこれをどれくらい掴まえられるのか。それが「どれだけ生きたか」になっていくのかな。

写真集も、そんなあれこれを寄せ集めるように出来上がっていくのかな。

 

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