どんな空気を吸いたいのか

11月は職場も自宅も引っ越しの季節となっていて、少し疲れている。

 

今までその場所にあったものをひっくり返して確認して仕分けして移動させて…という作業はただの作業に終わらず、どこか自分のこころのなかも引っくり返している気分になる。底に溜まっていた澱を巻き上げるような。

特に自分の家なんかはそうで、場所に馴染んで「まあいっか」と出来ていたものにも1個1個イエスかノーか、「お前はおれにとって何なんだ?」という質問を突きつけなければならない。それは「今のおれって何?」という質問を無限に繰り返していることにもなるので、当たり前に疲労感が蓄積していく結果となる。

 

しかもぼくの持ち物のほとんどは本なのである。これが大変なのだ。

本は、ぼくにとっては娯楽品というよりも「今の自分に必要だと思うもの」「吸収したいと思うもの」で、そこには自分の過去や未来に対する思いが詰まっている。もはや「この本のようになりたい!」と思うような本もあったし、読まなくてもそこにあるだけでひっそりとメッセージを発してくれているような、ぼくのすきな空気をつくってくれているような本もあった。

 

最近はあまり本を買わなくなっていたので、部屋に並べてあるのはちょっとむかしに買った本ばかりになっていた。そんな本たちに「今の気持ちとは少し違ってきているよな」と思ったりして、少しずつ売り払ったりした。少しずつ、少しずつ、本は減っていった。

 

そして、気がついたら「あれ?もうこれだけしかないの?」というぐらいしかなくなっていた。残った本たちはどれも「そう簡単には売ろうという気持ちになれないな…」というものばかりだった。あんなにたくさんあったのに、こんなに売ってしまったのかと少し茫然としてしまった(今でもしている)。大事な本しか残っていないというのは、それはそれでよいのだけれど、その余裕というか、余白のない感じが少し息苦しかった。

 

残った本たちは、それこそ宝石箱のような本ばかりである。読んでいるものも読んでいないものもどれもがぼくにとってなにかを告げてくれているものたちである。世の中にはそれこそ無限とも思われるほど本があるけれど、そのなかから集められた本は、自分が一体どういう人間なのかを教えてくれるような気がする。ほんとうはどういう空気を吸って生きていたいのかというようなことを。

 

そして、願わくば自分もこの本たちと同じような空気をまとった本をつくりたいものだなと思う。おそらくそれがぼくにとっても自然なことのはずなのだ。写真を撮っていても、展示をつくるより本をつくりたい。そのためにできることをしていくことが、これからしていかなければいけないことだなと思う。

 

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