「死ね」と言われて失格写真家
飲み屋さんで見知らぬおじさんに「おまえは生きている価値がないから死ね」と言われた。
他人に言われずとも多感な時期、自分に何度も突きつけてきたような言葉なので「そういえば自分はそういう人間だったなあ」となった(というか、いまだに「生きてる価値あるっけ?」という細い糸の上を歩いているのだが・・・)。それでもやっぱり他人から言われるのはちょっと違うきつさがあったな、単純にびっくりした。
「生きてる価値があるのか、ないのか」、そもそも問題自体が雲をつかむような話感がある。「生きている価値がない」と思って生きていたくはないけれど、「生きている価値がある」と思いながら生きるのも傲慢で汚く感じるの嫌だ。何も考えず生きているのが一番いい、動物や植物や星や宇宙は価値なんて考えない。生きたいとか死にたいとかも考えない。命ある限り生きることが自然なことだから生きているだけ。「生きている価値」みたいなものは人間が生み出しただいぶ怪しい概念だ。
それでも、人間はそういうことを考えないと生きていけないようになっているというか、そういうことを考えないと生きていけない人間というのがいて、そういう意味では人間という生き物の本質の一部を物語っているものなのだろうな、と思う。目を細めて怪しまなきゃいけない概念だけど、軽んじることもできない概念、というのが今の自分の感覚に近い。
こういうことはいくらでもぐだぐだ考えられるので、ここではこの程度のメモにとどめておく。
自分が気になっているのは、そういう言葉をぶつけられてまったくからだが硬直してしまったことである。
ここでは書けないけれど結構な言われようだった。だいぶひどい言葉を突きつけられたのだし、だいぶ見下された状況をつくられたのだけれど、それに対してその場ではほとんど何も言い返せなかったのに、こうしてあとでいろいろ考えて悔しがっている自分がいるということ。
正直、胸倉ぐらいつかまなきゃいけなかったと思う。そうやって、自分のなかにある何かを表現しなきゃいけなかったのではないかなと思う。そうできなかったから、その場その状況に間に合わず、後から後からごろごろと思いだしてみじめな気持ちになったりするのだ
感情は起こったときに出さないと意味がない。
それは写真とほとんど同じこと。その瞬間に間に合わないと意味がない。ぼくは感情が起こったときに、それをぱっととらえて外に出すのがヘタクソで、結局瞬間というものに間に合うこと自体がヘタクソなのだと思う。
バカなこと言ってても、何も言葉にならなくても、自分の中に起こっている怒りをとらえてその場で表現していればよかった。少しでもいいから「そういうものがある」ということをその見ず知らずのおじさんに伝えるべきだった。おじさんだけじゃなく、同席していた人たちにも。
暴力はいけないとか、それでは余計にややこしいことになっただろうとか、そういう問題じゃないんです。生きているのにいないフリをするな、っていう、そういうことなのだと思います。
これでは写真家失格だな、と思った。
それでもおじさん、ぼくは現代人として、ふてぶてしく生きていくよ。生きていればちょっとずつでもよくなっていけるような気がするんだよ。昨日はごめんね、ぶん殴れなくて。