四月歌という名前をもって

今回は美術作家、杉戸洋の作品集『April Song』について書く。すぐ手元にその本があったので。

f:id:otsushu:20180113112007j:plain


といって、べつに適当に選んでいるわけではなく手元にあるというのは知らず知らずのうちに読み返しているということで、それに最近気が付いて自分でも驚いたので一度なにか書いてみようかなと思った。

杉戸洋って、みなさんいったいどれくらい知っているのだろう。このブログを読んでいるひとはおもにぼくの友人らしいので(ありがとう!)知っているひとも多いと思うけれど、一般的にはあまり知られていないのだろうな…でも、国内外でも高く評価を得ている現代美術作家です。日本ではここ三年くらい毎年のように美術館での展覧会があったので、結構にぎわっていたと思う(あくまで現代美術業界ではという話ですが)。

さて、どういう作品をつくっているひとかと言うと、おもに絵なのだけれど、ざっくりいつも業界のひとが説明している感じで言えば「パステルのようなやわらかな色づかいで具象と抽象を行き来するような絵画を制作している」となるのかな、今ぱっと検索して杉戸洋の作品を見ても特にこの文言ではずれていないのではないかと思う。
けれど、それはあくまで表面的な話であって、実際に展覧会に足をはこび観てみればそんな言葉ではおさまらないなにごとかが起こっていることがわかる。個人的な感想になるがあれはちょっとしたスペクタクルである。なにがスペクタクルって、絵は絵であるかぎりそれだけできちんと成立し存在しているはずなのに、ひとたび展示空間の壁なり床なり木端の上なりに置かれるとあたかもそこに置かれるがためにその形、色、書き味、完成度までが選択されているようで「きみはこういう土でこういう日当たりで一年で見ればこういう気候の土地で育ったのでこういう木になったのだね」と、まるで自然物でも見ているな気分になってくるのである。「絵が絵からはみ出していろんなものに支えられながら立っている」というような。
ふつう、絵はまずただ絵として完成する。絵として完成したら、その絵に似合うかあるいは引き立てるような額をつける(あるいはつけない)。展示するならなるべくよく見える場所に飾る。絵がいくつもあればそれらいくつもを使って空間をつくる。それぞれの絵がよく映えるような空間にしたり、居心地のいい空間にしたり、インパクトのある空間にしたり。

しかし杉戸洋の場合、たとえば額に入っている絵があればそれは額ありきで成り立つようになっている。まるで最初からその額に合うように描かれたように。ある絵はキャンバスを張る釘が半分飛び出している状態でなければならないし、ある絵はある絵の隣にいなければならないし、そのある絵の上辺にはなぞの緑とか青とかピンクとかラメとかが塗られた木端がのっていなければないし、それらの絵は天窓から光が差し込む部屋になければならないし、部屋の床はピンクのマットでなければならないし…と、こんなふうにずっとずっと思考がマクロに続いていって、果てにはこの日本にあることとか地球にあることとか宇宙にあることにまで続いていきそうな、とそれはさすがに大袈裟だけれど、それくらいに緻密で緊密で複雑な関係を絵を描きながら絵を越えてつくっている作家だなと、これはたぶんぼくだけではなく展覧会を観たひとならばだいたい同じようなことを感じているのではないかと思う。
たぶん、杉戸洋にとって絵はたとえ同じ絵であっても一分一秒ごと、瞬間瞬間うつろって、表情を変えていくのだろうな。晴れの日と雨の日、曇りの日、朝、昼、夕方に夜、アトリエにあるときと展示会場にあるとき、毛布やぷちぷちや紙になど巻かれて梱包されているとき、それを解いたとき…一枚の絵におとずれるさまざまな瞬間をすべてべつものとしてあつかっているのではなかろうか。それはもちろん真実ではあるけれど、絵描きがそれをやっているというのがちょっとおそろしい。多かれ少なかれ一画面に美を「固定する」のが絵画の一般的な性質であって、だからこそ、その価値も固定される。けれど、杉戸洋のやっていることはそれとはまったく真逆のことではないか…。

はてさて、ここまで長かったが『April Song』である。
この本は、さっき作品集と書いたが、ぼくはどちらかと言えば写真集かなと思っている。もちろん作品はたくさん載っているが写真の一部として写り込んでいることの方が多いし、作品はいっさい写っていないただのスナップショットも結構ある。しかし、それらのスナップショットが杉戸作品とまったく関係ないかと言えばこれが見事に杉戸作品とかさなる写真になっているのだな、よくもまあこんなに自分の絵そっくりの写真が撮れたものだなと感心してしまうくらいに。さっき書いた作品のうつろいも本人がしっかり撮ってくれている。全部見終わるころには「なはんだ、杉戸さんの絵のからくりはこういうことだったのか」と漠然な納得感を得られると思う。
実はもっと作品集然とした『UNDER THE SHADOW』という本ももっているのだけれど、こちらはあまり見返さない。『April Song』に慣れてしまうとピンポイントに絵だけを切り取って絶対的に見せるやり方ではなんとなく物足りなく感じられるのだ。序文に言葉があるだけで、あとは作品タイトルすらなく淡々と写真だけを見せられる本だけど、ここで達成されていることは大きい。自分のつくる写真集もこういうものになればいいのにな、と思うけれど、ちょっとむつかしいかな。絵描いてないし。

 

では、最後は杉戸洋ご自身の言葉で。最近は展覧会のタイトルにも独特のセンスを感じます。

 

キャンバスを壁に掛けて制作に取りかかるとき、壁に出来る影の色をいつも気にしながら描いています。
季節では四月が一番好きです。
ここ三年間を振り返ってみると、八月、九月に日本で仕上がった絵がないことに気がつきました。
どうすればこのじめじめした湿気を味方につけて制作出来るか日々考えています。
(中略)
ウィーンにいるときは、ピアノの音がきれいに聴こえたりパンを美味しいと感じましたが、
ピンクの色はここで見るのが一番美しく見えます。

 

文章を書く年、あけました。

新年明けまして。明けました。

 

今年に入って文章というかテキストというか、そういうものを本腰を入れて書きたくなった。

はっきり「こう!」と言える理由はないのだけれど、ほんとうはある。自分にしかわからない理由――このまま特にぐぎゃんとへし折られたり無理に曲げたりされることなく、たとえばすーっと息を吐くようにまっすぐ自分が育ったとしたら、たとえば10年後何をしているだろうか、と考えたときに、たぶん文章を書いているだろうと思った。ぐっと握りしめなければならないような確信ではなく、まったく自然に。力を抜けばからだは水に浮くように。

 

ただ、じゃあなにを書くのかとなったときに特に書きたいことがあるわけじゃない。これが困ったことだ。じゃあ小説でも書こうか、と手をつけてみたら、つけはじめた瞬間に力が入って胸が詰まって気持ち悪くなった。あんなに自然に文章が書けると、きっと書いてそれで稼いで生きているだろうと思えたのに、なんてなんて不自然な力の入り方。おかしいだろうと思った。こんなふうに書いていては書けるものも書けないだろうと思った(ちなみにこの文章はいたってすらすら書いている。何も考えずに。考えていないから書けている)。

 

気持ち悪くなったのでカメラを持って外に出た。

なんて自然に写真は撮れるのだろう。不自然なときもあるけれど、そういうときのこともひっくるめてぱっと受容して、努力なく世界と触れ合って、風や木や走り去る車やちょっとした日差しの色合いの変化を感じて、家を出たときにはかたかった頭もからだもふーっと和らいでくる。

でも写真ではだめなんだな、お金にならないから。お金にならないからというか、本来与えられているものではないから。こんなに撮れるのになんだかもったいないなと思うけれど、本筋ではないという感覚がある。ただすごく重要なパーツであることには違いないんだろうな。ぼくに常に示唆を与えてくれるもの。あまりいくつかのことに集中するのは得意ではないけれど、写真への集中力は切らしてはいけない気がする。たとえ文章が今よりもっと書けるようになったとして、それでお金を稼げるようになったとしても、命綱は写真かもしれない。

 

とか、書いていたらあっという間に空間が埋まっている。自分のなかでは結構むちゃくちゃな書き味なのだけれど(何しろ何も考えていないので)、スピード感があるから文章が書きたいことを連れてきてくれている感じがある。衝動的、というのとも違って、文章が手をのばして自分(←文章)の友達のような言葉をひっぱってくるような…。

 

ともかく明けまして今年は文章を書く年です。写真を撮りながら。銭も稼ぎながら。

 

f:id:otsushu:20180110000145j:plain

酔った帰り道はなぜかたくさん写真を撮っている。たとえばこんな写真とか、

f:id:otsushu:20171228175759j:plain

 

今年最後の月も、残り数日となった。

 

普段はそれほど疑り深い性格ではない(と、思っている)のだけれど、「どんどん時の流れが速くなっているように感じる」という、よく聞く言葉にたいしてはずっと否定的というか、うなずけないでいる。それを言うなら僕は子どもの頃から時間が経つのは早いと思っていた。少なくとも年末にはいつも「今年ってもう終わってしまうんだ」という気持ちになっていたし、小学校の卒業のときも、中学校や高校を卒業するときにも「あっという間だったな」と思った。ものごとが終わるときには必ずそう思うものなのだ。なので、ことさらに早い早いと思うことはしないようにしている。確かに、子どもに比べると一定の時間のなかでの感覚の密度のようなものは薄くなってきているのかもしれないけれど、もし勝手に感覚がスキップさせているような時間があるのであれば、今一度普通の再生モードで、時にはコマ送りにして、目のまえにあるものごとと向き合ってみたい。

たぶん、これが来年の大枠での目標になると思う。

 

目下にある小さな目標としては職を見つけなくてはならない、というのがある(決して小さくない)。今年中に見つかるのが理想的ではあったけれど、状況に甘えて来年に持ち越してしまった。

とはいえ、職を失った当初に考えていたほど、すぐに決めてしまわなかったことはよかったと思っている。「とにかく早く職がほしい!」とやっきになっていたが、それでもやはり何でもいいわけではない。特に意識がふんわりと変わってきたのは、「自分は作家じゃないよな」と思えてからだ。もし作家でないのであればアルバイトやそれに似た仕事はもうしない方がいいのではないかな、という意識が生まれた。というか、過去何度かそういう意識は生まれていた。ただ何やら自然と写真集なんかを作っていたので、自分自身で自分が何なのかよくわからなくなっていただけだ。

 

たぶん、自分は作家ではない。

これからも写真を撮るし写真集もつくるしそれ以外にも何かをつくっていくような気はしているが、それでもいわゆる作家と呼ばれるような人間ではない。

 

だから何かちゃんとした手に職をつけた方がよいのではないだろうか、というのが、この2017年末の僕のこころである。次の職が、結構な分岐点になるかもしれない。予感だけれど。

 

新しい写真集の話。

新作の写真集はちょうどクリスマスの朝に届いた。今までにない大きさの写真集だったのだけれど(297×297㎜)、個人的にはいまいちの出来だった。撮っている写真は間違っていないと思うのだが、形にするやり方が違うというか、見せ方が違うというか、とにかく何か限界を感じさせる一冊で、そういう意味では今年の集大成としてふさわしい写真集になった。

そもそも本というのはひとりでつくるものではないのではないだろうか?

たとえば絵はひとりで描いて、ひとりで完成させてもいい。ひとりで完成させるしかない、ということだってある。けれど展示はひとりで考えるには限界がある。そういう感じである。ひとりで考えて、ひとりでつくるには、本は大きなものでありすぎる。

 

来年の今頃もまた、同じように未来に課題を抱えた違う自分がこのパソコンのまえにいるのだろうな。少しずつ、少しずつ、自分のやるべきことが絞られていっているのを感じるけれど、それでもなお未来は未知で、大きくて、茫漠としている。

来年。シーレの没後から100年。僕は27歳になる。シーレは28歳で死んだ。

「エターナル」な世界

新しい写真集のデータを入稿した。

 

制作に入ってからおよそ3週間かかった。早いと言えば早いけど、少しもたついたかなという感じもする。最初に「こういう写真集」と思っていたかたちとは違うものになった。タイトルだけは変わらなかったが、それはそれで意外だった。

 

タイトルは『瞳そらさないで』である。

 

11月に入ったころだと思うが、新しい写真集のことを考えはじめたときにZARDの「瞳そらさないで」がふと頭に流れた。一度流れるとたびたび流れるようになった。たいしてすきだった曲はない(収録されていたアルバムをそんなに聴いていなかったのだと思う)のだけれど、なんせ多感な時期にしこたま聴いていたので三つ子の魂百まで、すっと歌詞とメロディーが浮かぶ。なんでかなーと思いつつ、しかしあまりにも頭から離れないし、写真集のタイトルとしても悪くないかなと思ってこれに決めた。その後「ほんとうにこれでいいのか?」と何度か思う機会があったがほかにいい言葉も浮かばず、そのまま確定となった。

 

今、このブログを書くために歌詞を調べてみたら、どうやらZARDではなくDEENの楽曲で、坂井泉水さんが歌詞提供をしていたようである。ZARDのアルバムでは6枚目の『forever you』の最後の曲として収められている。改めて読んでみると、彼女のこころが何かのきっかけで変わっていき、別れを切り出され、「それなら…」とおとなしく身を引いて(けれど未練たっぷりに)送り出す男の子を夏の情景とともに描いた歌詞だった。当時は(今もだが)歌詞のことなど全然気にせずに聴いていたので、今回ちゃんと読んでみて「こんな歌詞だったのか」となった。

 

いつも この時間は家にいたのに

最近君は 留守がちだね

やっと出た電話の声も

以前までと違う 感じが変わったよ

まだ 君の中に 僕がどれくらい居るのか

確かめてみたいんだ look in your eyes

 

瞳そらさないで 青い夏のトキメキの中で

summer breeze 心くすぐるよ

ひとり占めしたくて 抱き寄せた あつい午後

 

男の子が彼女に関して「以前までと違う」ということが具体的に述べられて始まっている。サビは、あくまで個人的な感想だけれど、夢見心地な、かっこつきの「エターナル」な印象さえある。色あせた写真を見るような、と言ってもいいかもしれない。たぶん、それはそれでこの歌詞の狙いに合っているのだろうけど、今読むと少し面喰ってしまうような感覚もある。当時でさえ、これはリアルとは違うものだったのではないだろうか。

こういう言葉や世界観を浴びて生きてきたのだな。

 

話は変わるが、最近ふと読みたくなって江國香織のエッセイ『いくつもの週末』を読んでいる。読んでびっくりした。まるで小説のような日々である。こんな生活があるのかと思う。生活であって生活ではない日々である。けれどそれは、非現実的な、でたらめな生活を送っているという意味ではない。おそらく江國香織は、小説家という特殊な仕事についているとはいえ、一般の人々が押しつけられる日常とそう変わらない時間を過ごしていると思う。ただ、感性が決定的に違う。こんなにも女性的な(男性のぼくから見て、ということではあるが)感性を全身で感じて、生きて、表現しているひとがいるとは。おかげでそう長くないのに1日1つ話を読めば満たされてしまう。自分としてはとても贅沢なエッセイである。

 

たぶん、江國香織のエッセイもある「エターナル」な情景の姿なのだと思う。それがどれだけ現実に起こったことであっても。そして、これを書いているうちに気がついたのだけれど、その「エターナル」な情景というのは、ぼくにとって至ってなじみの風景であるということである。

むしろ現実の日々がどうしてぼくの知っている「エターナル」なものでないのか、それに苦しみ、じたばたしながらこれまで生きてきたと言っていいかもしれない。

ただ、そういった日々は外からもたらされるものであると思っていた。それが大きな間違いだった。どんなひとにも現実はあるし、生活はある。そこには臭いやノイズや不味さがある。平凡や退屈や緩慢がある。美や驚嘆や啓示があるように。何を、どう感じるのか。それがほんとうの差を生みだす。

 

写真は、たぶんぼくにそれを教えるためにやってきたのだと思う。ずいぶん自分の身の周りが変わってきた。

 

f:id:otsushu:20171218200657j:plain

確かなあれこれ、それ

写真集、鋭意制作中…

とはなかなかいかず、何が忙しいのかわからないけれどばたばたしている。基本的に暇人の部類に入るうえ仕事すらしていないのに、さすがは師走というか、暇人すら走らせるのが12月というものらしい。

 

ここ1週間ほど、写真集で使うであろう写真をスキャンし直していた。というのも、ずっとフィルムからデータスキャンする際にA4サイズで取り込んでいたのだが、10月ごろから3:2の、いわゆる35㎜フィルムの比率で取り込むようになっていたので、そこはやはり比率を統一していた方がいいだろうと(そういうことが合っていないと気持ち悪く感じる性格なので)9月までの写真を見直し、取り込み直していたのである。しかし、やり始めると何とも要領を得ないというか、意味があるのかないのかよくわからなくなる作業であったので、幾分げんなりしてしまった。いつも作品をつくるときにはこういう時間が挟まってしまう。他人からしたら「何やってんの?」とか「無駄じゃない?」とか言われてしまうような、まったく心身の浪費としか言えないような時間である。正直ぼくとしても必要なのかどうなのかわからない。省けるなら省いた方がいいのだろうなという気はする。けれど省けない。ぼくにとっては避けて通れない薄暗いトンネルのような時間である。あるいはこれが個性と呼ばれるものなのかもしれない。

 

そうした個性的な(?)作業を通して写真集が出来上がったとして、さて、一体どれくらいの人の目に触れることになるのだろう。おそらく10人に満たない数だと思う。何だか労力にまったく見合わない数のように思える。

けれど、これが1000万人とか、何億人という数になったとして、はたしてどれくらい違うのかという気分にもなる。

ぼくらは一体何のために作品なんていうものをつくっているのだろう。絵でも彫刻でも楽曲でも映画でも小説でも漫画でも生け花でもダンスでもいいけれど、それが、例えば現在ぼくらが感じているように、感情を動かされたり、生きるということに対する示唆を受けたり、ほんのひとときの慰みになったりしたとして、一体どれほどの意味があるのだろう。だっていつかはその作品も作者もそれを見た人々も消えてなくなるのである。必ずなくなるのである。しかも、その作品によってもたらされた意味(というものがあるとして)はぼくら人間にしか価値のないものである。同じ生命であっても人間のような知的活動を行っていない他の動植物や鉱物や星には何の意味もない。ある動物の求愛活動が他の動物にはまったく通じないように。

 

この宇宙全体で見ると知的活動を行っている生命より行っていない生命の方が圧倒的に多いだろう。そして、仮にぼくらと似たような知的生命体がいたとしても、ぼくらの行動や価値観が通じるとは限らない。ぼくらはほんとうにぼくら人間に向けてしか何かをつくったりはできないのではないか。そしてどれだけ素晴らしい作品をつくろうと、その作品も、作品を見た人々も未来には消えていくのだと思うと、ほんとうに確かなものや価値のあるものは今目の前にある何かであり、誰かなのだなと感じられた。ぬるい湯船につかりながら。

 

今、生起しているそれ。変化しているあれ。動いているあなた。言葉に、声に、瞳によって揺れるこころ。そんな些細なあれこれをどれくらい掴まえられるのか。それが「どれだけ生きたか」になっていくのかな。

写真集も、そんなあれこれを寄せ集めるように出来上がっていくのかな。

 

f:id:otsushu:20171210183533j:plain

ちょっと落ち着いてください。

職探しやら写真集製作をさぼってこのブログを書いている。

 

昨日、職探しのことでうちの女の子に「もう少し落ち着いて考えたら?」と言われた。ぼくは「いつでも働けるな、働くぞ!」という気持ちのままとりあえず気になったところに電話を掛けてみようと思ったのだが、彼女にそう言われて少し焦っていたことに気がついた。

 

そもそも先月まで、つまり前の仕事をしていたときには「とりあえず少しのほほんとするか」という気分で無職の期間を迎えようとしていたのだ。それが始まってみれば「思ったよりのほほんとしない。むしろやる気みたいなものがあるな。今すぐ働きはじめたい!」というふうで、タウンワークなんぞをばっさばっさめくって仕事を探しているわけである。そりゃ、うちの女の子からすれば不思議に見えるだろう。あんたこの前まで仕事なんてちっとも探してなかったじゃない。

 

ピンとくる仕事はいくつかあるのだが、「これだ!」という仕事はまだない。前の書店の仕事の話がきたときはそうだった。正直その仕事で生活が成り立つかわからなかったし、条件がいいわけでもなかったけれど、瞬間的にこの仕事をやるべきだとわかった。これをずっと待っていたんだと思った。

もちろん、今回もそういう話がくるとは限らないし、あてにしてはだめなので自分動ける限り動かなくてはならないのだが、何となくそういう縁みたいなものを積極的に待っていようと思う。

 

写真集の製作は結構忙しい、というか、やっぱり1年間撮ったものを見返すのはそれなりに大変な作業である。自分なんてフォトグラファーの人と比べればそうたいした枚数撮っていないのだけれど、それでも4000~5000枚くらいはあるわけで、セレクトしているうちにだんだんどんな写真集にしたかったのか、輪郭がぼやけてくる。だから必ず写真集に入れるものを先にプリントして、そばに置いてある。これはなんとなくパッと浮かんだ、写真集の基調になる写真たちである。どんな写真集にしたいか、より先にもう選ばれる写真があって、その写真たちに従って写真集を作っている。そんな感じがするし、そんな感じの写真集になればいいと思っている。ぼくの写真がつくる。自然な写真集というふうに。

年内に仕上げようと思っていたが、もう少し時間がかかるのかもしれない。

 

f:id:otsushu:20171206111050j:plain

 

晴れて無職な潜在意識

アルバイト先の書店が休業ということで、ここ10日ほどそのための整理整頓(商品の返品など)をせっせとこなし、29日をもってその作業が終わった。

つまり30日から無職になった。

 

面接前から条件として今年の11月いっぱいまでということは告げられていたので、慣れない業務で大変なことがあっても「とにかく11月まで」という気持ちで働いてきた。正直勤め先には迷惑をかけてばかりだったけれど、自分としてはやってみたかった仕事だったし、いろんなことを学ぶことができたので充実した10か月だった。

 

そして、無職になった。

そもそも働くということがあまり好きではなかったので、仕事がなくなればもう少しせいせいするかと思いきや「さーて、次は何の仕事をしようか!」と割と意欲的な気分驚いた。早速駅前からタウンワークを持ち帰ってパラパラ見ていると目に留まるのが意外な仕事だったりして。おやおや、どうしたのだろうか自分。

 

話は少し変わるが、最近自分の無意識というか、潜在意識と普段の意識が近しくなっている気がする。

毎晩見る夢もスパッとストレートに現実の意識活動を反映しているものが多くなった気がするし、あと、偶然の一致(シンクロニシティというやつ)が増えている。自分が何となく「ほしいな」と思っていたものが棚ぼた的に手に入ったり、気に入っている小物がそのすぐ後ろのテレビで流れている映画のなかに現れたり(このときはほんとうにびっくりした)、そういう類のことである。もともと偶然の一致は多く起こる方なのだけれど、以前より少し精度が増しているというか、もはやえぐさを感じるくらい狙いすまして起こっている感覚がある。

極めつけはデジャ・ヴュである。デジャ・ヴュは、感覚としては小学生~中学生くらいがもっとも多く、また鮮明に起こっていた気がするのだけれど、この前はなんと3日連続でデジャ・ヴュが起こった。こんなの初めてである。鮮明さこそ小・中学生の頃にはかなわないが(ほんとうにからだがぞわっとしたものね。あれは何だったのだろう)、「あー、この後このまま作業を続けて気分が悪くなっちゃったんだよな。だからこのへんでやめておこう」なんてことが出来てしまい、もはやデジャ・ヴュというより未来を見てきたかのようであった。

 

これを読んでいる人は今書いたような事象と意識・無意識が近しくなることに関係があるのかと思われるかもしれないが、ぼくの感覚では間違いなく「ある」。要は自分の無意識のなかで起こっていることが現実化したり、現実のことがスッと無意識に入っていっているわけで、現実と無意識の交通がとてもクリアになっているのですよね。それにはその間にある意識(自意識と言ってもいいけれど)がある程度クリアでなければいけなくて、さっきは「近しい」という言葉を使ったけれど、意識が前より少しクリアになった結果、無意識が透けて見えるようになっている、という感じなのかもしれない。

 

「思っていることはすべて現実になる」と、ある呼吸法の先生が言っていたが、それもほんとうだなと感じられるようになってきた。人間まず意識があって、意識が言葉になって、思考になって、やがて行動になっていく。そういうようになっているみたいである。ぼくの今の無職の状態というのも、いつの時点かの自分が想像していたことだし、この先の未来も、ぼくの無意識はたぶん全部知っているのだろうなという感じがする。というか、無意識の場所にないことは出来ないし、起こらないのだろうなという感じがする。

 

そんなわけで、ぼくが意外な仕事に興味を持っても、それはたぶんぼくのなかに蓄積されている無意識からすれば当然興味を持つであろう仕事なのだろう。ただ、どうも腰の重いぼくはきっとやった方がいいであろうその仕事を「もう少し様子を見よう」とステイしてしまった。もう少し積極的に、行動的になれるといいんだけど、勇気が足りない。それがこれからの課題。

 

あと、無意識で言えばなーんとなく海外に行くような気がしている。「なーんとなく」とはいえすでにはっきり意識に出てきているので、これはずいぶん前に無意識にストックされたものだと思うのだけれど、一体いつなのだろう。旅行、とかではないんだよな。旅行そんなに好きじゃないし。でもじゃあ海外ってどこなんだよ。

それもこれから。

 

f:id:otsushu:20171203111436j:plain