「エターナル」な世界
新しい写真集のデータを入稿した。
制作に入ってからおよそ3週間かかった。早いと言えば早いけど、少しもたついたかなという感じもする。最初に「こういう写真集」と思っていたかたちとは違うものになった。タイトルだけは変わらなかったが、それはそれで意外だった。
タイトルは『瞳そらさないで』である。
11月に入ったころだと思うが、新しい写真集のことを考えはじめたときにZARDの「瞳そらさないで」がふと頭に流れた。一度流れるとたびたび流れるようになった。たいしてすきだった曲はない(収録されていたアルバムをそんなに聴いていなかったのだと思う)のだけれど、なんせ多感な時期にしこたま聴いていたので三つ子の魂百まで、すっと歌詞とメロディーが浮かぶ。なんでかなーと思いつつ、しかしあまりにも頭から離れないし、写真集のタイトルとしても悪くないかなと思ってこれに決めた。その後「ほんとうにこれでいいのか?」と何度か思う機会があったがほかにいい言葉も浮かばず、そのまま確定となった。
今、このブログを書くために歌詞を調べてみたら、どうやらZARDではなくDEENの楽曲で、坂井泉水さんが歌詞提供をしていたようである。ZARDのアルバムでは6枚目の『forever you』の最後の曲として収められている。改めて読んでみると、彼女のこころが何かのきっかけで変わっていき、別れを切り出され、「それなら…」とおとなしく身を引いて(けれど未練たっぷりに)送り出す男の子を夏の情景とともに描いた歌詞だった。当時は(今もだが)歌詞のことなど全然気にせずに聴いていたので、今回ちゃんと読んでみて「こんな歌詞だったのか」となった。
いつも この時間は家にいたのに
最近君は 留守がちだね
やっと出た電話の声も
以前までと違う 感じが変わったよ
まだ 君の中に 僕がどれくらい居るのか
確かめてみたいんだ look in your eyes
瞳そらさないで 青い夏のトキメキの中で
summer breeze 心くすぐるよ
ひとり占めしたくて 抱き寄せた あつい午後
男の子が彼女に関して「以前までと違う」ということが具体的に述べられて始まっている。サビは、あくまで個人的な感想だけれど、夢見心地な、かっこつきの「エターナル」な印象さえある。色あせた写真を見るような、と言ってもいいかもしれない。たぶん、それはそれでこの歌詞の狙いに合っているのだろうけど、今読むと少し面喰ってしまうような感覚もある。当時でさえ、これはリアルとは違うものだったのではないだろうか。
こういう言葉や世界観を浴びて生きてきたのだな。
話は変わるが、最近ふと読みたくなって江國香織のエッセイ『いくつもの週末』を読んでいる。読んでびっくりした。まるで小説のような日々である。こんな生活があるのかと思う。生活であって生活ではない日々である。けれどそれは、非現実的な、でたらめな生活を送っているという意味ではない。おそらく江國香織は、小説家という特殊な仕事についているとはいえ、一般の人々が押しつけられる日常とそう変わらない時間を過ごしていると思う。ただ、感性が決定的に違う。こんなにも女性的な(男性のぼくから見て、ということではあるが)感性を全身で感じて、生きて、表現しているひとがいるとは。おかげでそう長くないのに1日1つ話を読めば満たされてしまう。自分としてはとても贅沢なエッセイである。
たぶん、江國香織のエッセイもある「エターナル」な情景の姿なのだと思う。それがどれだけ現実に起こったことであっても。そして、これを書いているうちに気がついたのだけれど、その「エターナル」な情景というのは、ぼくにとって至ってなじみの風景であるということである。
むしろ現実の日々がどうしてぼくの知っている「エターナル」なものでないのか、それに苦しみ、じたばたしながらこれまで生きてきたと言っていいかもしれない。
ただ、そういった日々は外からもたらされるものであると思っていた。それが大きな間違いだった。どんなひとにも現実はあるし、生活はある。そこには臭いやノイズや不味さがある。平凡や退屈や緩慢がある。美や驚嘆や啓示があるように。何を、どう感じるのか。それがほんとうの差を生みだす。
写真は、たぶんぼくにそれを教えるためにやってきたのだと思う。ずいぶん自分の身の周りが変わってきた。