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大学を出て半年近く経つけれど、あまり変化が感じられず、「これは今どういう状況なのか」と日々ぼんやり考えながら、ずいぶんゆったりと暮らしている。

もっともよく考えてみれば4月から写真集は4冊作ったし(2冊はほぼ誰にも見せていないけれど)、公募にも出した(すべりこみでエントリーして何事もなかったかのように落ちました)。中判カメラを買い、こうしてブログやホームページを始め…と挙げてみれば「何だ、いろいろやってるじゃないか」という気になるのだけれど、何だかなともやもやとしている。

最近は夕方の5時頃になるとカメラを持って外に出る。ある時少しずつ暗くなっていく部屋のなかから外を見ていて「夏は昼が長いのではなく夕方が長いのだ」と気付いて、この夏は夕方を撮ろうと決めた。ちょうどその頃、昼間の白色の光の下を歩いていても何故か撮気が起りづらくなっていて不思議に思っていたところで、「どうしたのだろう」と少ししょげて家に帰ろうとしていると色味を帯びた光が斜めに差し始め、途端に「撮れる!」景色に世界が変わっているということがあった。

そうして夕方を撮っているといろいろ思い出す、というか、何か懐かしい感覚を撮っている気分になる。夕方にはもともとそういうノスタルジーを喚起する何かがあるのだろうが、ふと思ったことは、子供の頃に遊んでいた時間というのはほとんどが夕方だったのだな、ということだった。「昼間は学校にいるんだから、それはそうだろう」という話だが、自分としてはちょっと目から鱗の発見だった。そうか、子供時代の自由な記憶というのはほとんど夕方に集中しているのか。そう思うともっともっと夕方が撮りたくなって、撮った。撮れば撮るほど自分の子供時代を掘り起こせるような気がしたし、ファインダーのなかも出来上がった写真もどんどん子供時代に見ていたものに近づいていく感覚があった。

 

それで地元に帰った話。本当は夕暮れ時に家の周りを歩けるとよかったのだが、あまりそういう時間は取れなかった。けれど、日の高い時に少し歩いてみて、今自分が撮っている写真と自分が子供の頃育った町はあまり似ていないことがわかった。もっと言えば、今住んでいる町には懐かしさを覚えるのに、地元には違和感こそあれど懐かしさはあまり感じられなかった。

不思議な話だなと思ったけれど、少し予想していたことでもあった。

さっきは写真を撮りながら子供時代を掘り起こせるような気がした、と書いたけれど、気がしただけでうまく掘り起こせはしなかった。シャッターを切って子供時代が写るわけがない。子供時代の感覚に似た何が写っているような気がして、「これってなんだ?これってなんだ?」と思いながら撮り続けているだけで、写真が写しているのは一貫して今あることだし、撮ることで子供の時にためて沈んでしまった澱が舞い上がるようなことがあってもそれは今の自分の心情と混ざり合って、子供の時のそれとはまた違う感覚を作り出している。ある時それに気付いて、「あ、自分は今、子供時代の夕方を生きなおしているのだな」と思った。

 

たぶん夏じゃないと意味がないから、夕方を撮れるのはあと2週間ぐらい。そんなに一生懸命は撮らないけど、からだにちゃんと感覚が残ればいいな。