ぼくは怒ったんだ。
昨日記事を書いたばかりだけど、今日も腹の虫というか胸の虫というか、とにかく気持ちが収まらず、からだまで変な具合になってしまっていたので、もう一度見知らぬおじさんに「死ね」と言われた話を書く。
正しくは「お前に生きている価値はないから死ね」と言われた話である。
前回の記事はちょっときれいに書きすぎた。ごめんね、と謝るなんてまったくバカみたいである。
ぼくは本当に腹が立っている。ぼくを傷つけたおじさんと、自分に。
昨日は書かなかったというか書けなかったのだが、ぼくが一番傷ついたのは「お前も、お前の大切なものも、おれはいつでも侵略できる」という言葉だった。
ほんとうはもっとあからさまに、暴力的な表現で、何度もそう言われた。ぼくはそのときすでに頭が白くなっていて、小パニックの状態に陥っていた。「死ね」という言葉に青ざめぼくの顔を見て、さらに追い打ちをかけたのか、あるいは「しっかりしろよ」という意味もあったのか、おじさんの心は知らないが、ぼくの心はさらに追い込まれることになった。
「おれはお前の大切なものを侵すことができる。お前はどうするんだ?」
おじさんはそう訊ねてきた。ぼくは何も答えられなかった。おじさんは呆れたように笑いながらもう一度大きな声で繰り返した。「おれはお前の大切なものを侵すことができる。お前はどうするんだ?」
白んだ頭のなかに浮かんできたのは、自分のなかにある、普段はほんとうにちいさくちいさくなっている攻撃性をそのおじさんの額に突き立てるイメージだった。でも、ぼくは何も言えなかったし、動くこともできなかった。おじさんは心底ぼくを見下して、そのあともわめき続けていた。
実際にその場で、ぼくの大切なものが侵されたわけではなかったけれど、でも、それが実際に起こったかどうかが問題ではない。架空というのかシュミレーションというのか暗喩的にというのかよくわからないけれど、ぼくはすでにおじさんに大切なものを侵されてしまった。少なからず、ぼくの心のなかでは。
小説やアニメで、主人公が大切なもののために闘うシーンはよくある。昨日も見た。『メイド・イン・アビス』というアニメでからだの穴という穴から血が噴き出し、片手が毒に侵されているパートナーを救うため、その手の骨を叩き折り、切り落とすというシーンである。
「もし、自分なら、こんなふうに勇気を振り絞り行動できるだろうか?」
気がつくとそう自分にたずねている。ぼく以外の人だってよくしている質問だと思う。ぼくの場合、「たぶんこうはできないだろうな」と思ってしまう。
幸い『メイド・イン・アビス』では途中で助けが入ってパートナーの手はぎりぎり切り落とさずに済んだ。
でも、それも彼(手を切り落とそうとした子)が勇気を出し、「何が何でも助ける!」という選択ができたからである。その選択がなければ助けは来ない、そういうことはきっとたくさんある。
ぼくはおじさんに対し、勇気を出すことができなかった。たとえ酒に酔った言葉であろうと、通してはいけない言葉だった。許してはいけない概念だった。ぼくは大切なものが守れない人間なのかもしれない。そんな思いを抱えて生きていくのって、生きた心地がしない。
どんなに小さな生き物だって攻撃性を持っている。大切なものを、存在の一部分を確実に踏みにじられたぼくの心にも復讐心に似た炎が起こっている。
おじさんの言葉のようなものはまた、ぼくの目の前にやってくる。
「お前の大切なものをおれはいつでも侵略できる」
ありありとイメージできる。そういうものがきっとやってくる。
生きてる価値なんかにとらわれたくない。遅れちゃうから。シャッターだってろくに押せなくなるんだ。
怒りを忘れないことだ。覚えておかなくてはいけない。
ぼくは怒ったんだ。