青森の写真たちと、あたらしいカメラ。

 青森に行ったのは五年まえ、ちょうど二十二歳になる月の頭。そのときに撮った写真をふと見返すことがあった。ずいぶん膨大な量があって、すべて見終えるといっしょに見ていた彼女とふたりで息を吐いた。

「まるっと旅行に行った気分。もう行く気が失せちゃった」と彼女は言った(この夏、ぼくらはひさしぶりにちょっとした旅行をするつもりでいる)。

 写真の多くはぼくが撮っていた。カメラは彼女が持っていたSONYのコンパクト一眼レフ。当時は日常的にカメラを触ったりしていなかったので、物珍しいおもちゃを手にしたときのように、はしゃいでシャッターを切っていたのだと思う。出来のいい写真はあまりなかった。暗いところではシャッタースピードが下がってブレやすくなることや、被写界深度がせまくなることも知らずに(もちろん「被写界深度」という言葉も)、ただボタンを押していただけだったのだから、仕方がない。くわえて、これはいまでも変わっていないが、ぼくは構図をきちんと決めずに撮るくせがあるので、撮れていないわけではないのにどこかぼんやりとして、気持ちの定まりきらない写真が多いように見えた。記録という意味があるおかげでようやくカードのなかに残してもらえているような写真たち。

 

 旅の記録の後半には恐山の写真があった。やはり大量に。

 実際にその場所に行かなければわからないことがあるということを、からだで感じた場所だった。バスを降りた瞬間に包まれる異様な空気。水墨で描かれたような山の形、色。あちこちに見える硫黄の黄色。打ち寄せるみずうみの波はなぜか音がしなかった。寺のなかに入っても気になったのは山とみずうみ、そして硫黄。一瞬浜辺のように見えるような場所があって、けれどそこはもちろん海ではないため、むこうにきれいな三角の山のつらなりが見えており、現実の景色とは思えなかった。石や地蔵や風車は、それにくらべればひとが関与しているぶん、どうということはなかったな、と、いまにして思う。

 さて、こうしたことが写真に写っていたのかと言えば、やっぱり写っていないようにぼくには感じられた。写真はひとのこころを写すようには、本来できていない。圧倒的な他者――写真を撮るようになってきてから、ぼくはカメラのことをそんなふうに考えている。目のまえにある景色が、ぼくとカメラでおなじように見えているはずはない、という意味で。

 写真を撮っているときのことを思い出してみると、「これを撮りたい」と思うとき、ほんのすこしではあるが、手に持っているカメラのレンズになっている瞬間があるような気がする。このカメラで撮ればこうなるだろう、という完成予想図のようなものが頭に閃いている。「なんとか見えているままに写らないかな」と思っているときもあるけれど、付き合いの長いカメラほど、そのカメラがよく写せるものを撮ろうとするのは、ふつうのことではないだろうか。

 ぼくで言えば、現時点でいちばんコミュニケーションを取っているカメラはNikon F2 Photomicになる。フルマニュアルなので、ぼくが指定したシャッタースピード、絞りを、その通りに切ってくれる。レンズの描写も過剰なところがすこしもなく、彼が見たままのものをぽんと写してくれる。素っ気ないくらいに。ぼくの指定に文句を言わない代わりに、頑張ったりもしない。言われたことをきっちりしてくれるだけ。すっきりとした関係だ、と思う。写真を撮るなら、このカメラをつかっているときが一番すきだ。

ほかのカメラ、とくに電気で動くようなカメラをつかうと「余計なことをしないでくれ」とか「つべこべ言わずシャッターを切ってくれ」と思うときが必ずある。カメラにしてみれば、ぼくのほうが横暴なのかもしれないが(きっとそうなのだと思う)、どうもいらいらしてしまうことが多い。理由はかんたんで、カメラのなかに「便利」という名のよくわからないプロセスが入り込んでいるせいだ。ぼくがメカに弱いことが大きいだろうが、そういうカメラはいまいち得意になれない。カメラに理解を示すことができない。

 

とは言いつつ、先日、コンパクトのフィルムカメラがほしくなって、CONTAXTVSを買った。

それまでもコンパクトカメラは持っていたことがあるのだけれど、みんなどこかしら調子をおかしくして撮れなくなってしまった。もともと中古カメラ屋のジャンク品コーナーで見つけて来たものなので、すこしつかえただけでもありがたかったが、気に入るくらいには長持ちしたので、それだけに残念な気持ちになった。なので、今回はできるだけ長くつかえるよう、高級コンパクトカメラに手を出すことにした(ボディが金属だから丈夫そう、という、ある意味なんの根拠もないような理由で)。まだ一本しかフィルムを現像していないので、感想を抱くのもまださきのことにはなるけれど、やはり例のいらいらは、撮影の段階で起こっている。ボディが重く、操作が思ったよりめんどくさい。もっと気軽に撮れて、写りのいいカメラをもとめていたのだけれど(そもそもCONTAXなんて持っていいのか、という問いもあった。そんな大袈裟なカメラでいいのか、と)仕方がない。のんびりとコミュニケーションを試みてみることにする。たぶん、旅行にはこのカメラを持って行くことになるだろう。もちろんF2 Photomicがベストだけれど、長旅にはちょっと重量オーバーに思えるから。とても残念ではあるけれど。

そしてぼくは、まだコンパクトカメラを探しをやめられていない。深くはないが、広い広いカメラの沼。

 

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追記:コンパクトカメラがほしくなったのはNikon F2より気軽に持ち運べるカメラがあってもいいなと思ったことと、なによりひさしぶりに刹那的な写真が撮りたくなったから。とくにストロボがつかいたかった、コンパクトカメラの。よく考えれば、いちばんなじみ深いのって、おうちでフラッシュを焚いて撮るような写真だ。目が赤く光る。「おうち写真でいいなら、なぜにCONTAX?」とやはり思われるかもしれないけれど、ただの好奇心です。一度ツァイスのレンズをつかってみたかった。