雑でもよければ近況を。

一期一会。

 

この言葉は思っている以上にシビアだと思う。死ぬまでにちゃんと自覚できるのか、自信がなくておそろしい。

 

そんなことを考えながら、今日、ひさしぶりにフィルムで写真を撮った。実際どれくらい期間が空いたのかはわからないが、フィルムを装填して巻き上げたときに指にかかった負荷が予想以上に大きかったことを考えると、ずいぶんからだはこの感覚から遠ざかっていたのだなと思った。

 

撮影感覚はそもそも取り戻すようなものを持っていないので鈍っているとは感じなかった。ただ変化しただけだ。すでに春の気配が濃厚になっているのだから当たり前だと思う(最近はまどろみも濃くて屈する日が多い)。冬から春になると、家からただよう夕餉のにおいも質が変わるということがわかった。この前、家に出たら突然空気が冬を越えていて、あたたかな夕方のにおいにからだがわっとなにかを思い出していた。予告などできるわけもないけれど、急に来られると戸惑う。親しき仲にもなんとやら。

 

ここ一か月は小説を書くことに集中していて、だいたいニ時間程度の作業時なのだけれど、この時間を毎日ちゃんと過ごそうとするとそれだけで一日が終わってしまう。ひとりでいる時間は、小説を書いているとき以外はずっとねむっているみたいである(家人が帰ってくるとはしゃいでいるが)。休学中も、そういえばこんな感じだったな、と思って、あまりに感触が似ているので焦ってNikon F2を握ったのだった。

 

写真は知性より野生。獣じみていればいいなと思う。カメラをもった獣。ずいぶん臆病な獣だけれど、獣であるなら臆病でもいい。カメラを持っているぼくは一種独特の雰囲気を発しているようで、知り合いは目撃をしても声を掛けないでいてくれるらしい。恥ずかしいけどありがたいです。そういえば中学生のころにも近隣の大人にはちょっと気味悪がられていたらしい。友達のお母さんが「いい子なんですよ」と弁解してくれていなかったらどうなっていたのだろう(もっとも、実際に「いい子」ではなかったのは申し訳ないかぎり)。

 

小説に集中する日々もリミットがある。それまでに完成するかは未定だが、物語はちゃんと終わりへむかっている。とにかく毎日ニ時間机のまえに座ることができれば終わると思う。いま書いている小説をほんとうに終わらせることができれば、たぶんぼくはつぎのステージにいけると思う。勝負はそこからだけど、つねに目のまえにしか勝負はないので、多少ぐたぐただになったとしてもとにかく右から左へ投げ飛ばす。上から下へ引きずり下ろす。システマティックに。システマティックに。

 

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