写真と小指

もう2週間以上なるのか、東京都美術館で見たアラーキーの展示。

その中の写真「近景」を見て「あ、自分はこういう風に撮りたいんだ」というヒントを実践しようと写真を撮っている。

 

ヒント、と言ったってそれはほんとうに感覚的なもので、他人に説明するようなことではないのだけれど、体感的なポイントとしてひとつ「からだの力を抜く」というのがある。

 

「近景」は奥さんの陽子さんが亡くなったあと、自宅のベランダで花瓶に入った花や愛用のシューズなどを撮ったシリーズで、それらのモノと向き合う透きとおった視線が観るものに迫ってくる。これは普段ぼくたちがモノを見る時より踏み込んで対象を見つめているという印象を与えるのだが、おそらく撮る側の感覚としては対象が自分に迫ってくる、飛び込んでくるという感じだと思う。

「自分を無常にして撮る」というのはアラーキーの言葉だけれど、この時のアラーキーは陽子さんを失った喪失感によって心に余計な自我がない状態、無常な状態が作られていたのだと思う。そんな心にモノはぐんぐんと迫ってくる。アラーキーはそれをただしっかりと、まっすぐに撮っただけ。そういう感じだったのではないかなと思う。その眼は限りなく冷めていて、シャッターだって決して力いっぱい切っているわけではない。淡々とモノが自分に訴えてくる姿を写したのだ。

 

比べることなんてほんとうはできないが、自分も時々そういう写真を撮っている。そういう写真が撮れたときは「とてもいい」と感じるときで、今回「近景」を見てそういう写真が自分の理想とする写真なんだということに気付いた。

 

さらに、その「近景」を見たときにどういう心とからだの状態で撮ればいいのかということがぼんやりとイメージできた。心の状態というのはほんとうに説明できないけれど(ぱっと言えば、ポカンとするみたいな感じである)、からだに関して言うと、余計な力を抜き特にシャッターはとにかく軽く切ることである。

 

話は変わるが桜井章一という雀士の本を読んでいて「小指は万能の指である」と書いてあった。普段ぼくらはついつい親指に力を入れがちだが、小指を意識して手・腕を動かすことで余計な力抜け、流れるようなきれいな動きができるようになるという。

「カメラを扱うときに小指を意識するってどういうことなのだろう」と思い、少し試してみた。

カメラを持つとき小指はカメラを下から支える位置にある。その小指を意識してみるとシャッター付近にある親指の力が抜けた。すると、結果としてシャッターを切る人差し指の力も抜けることになった。

ぼくのカメラは結構重い。親指の力を完全に抜き切るとカメラが落ちてしまうのである程度は力が入ってないといけない。でも、どうやら親指にかかる力の塩梅で人差し指がシャッターを切る力が決まるらしいので、最低限の力でカメラを支える必要がある。小指を意識しつつ、親指は繊細に使う。ぼくはからだのセンスがあまりよくないので、結構むつかしい。1回、1回微妙に感覚がずれる。気がつけば親指に力が入っている。スムーズに動くことができない。それでも、「ただ、撮る」というところから一歩進めたような気がしてとてもうれしい。

 

写真を撮るようになってからだを意識するようになった。どう考えても思考ではなくからだの感覚が重要だということが撮影するなかであきらかになってきたからである。自分には必要以上にからだに力が入っていること、うまく外に感覚を向けられていないことなどもわかってきた。

写真には教えられることが多い。ほんとうに感謝している。